本日のタスク
【終わったタスク】11/1(日)
◆勉強
・Ruby on Rails5 VIII(3h)
→ログイン機能、ログイン機能を作成、ログイン機能を仕上げ
◆運動
無し。
◆その他
・11/2の予定を決める。
・転職ブログ更新。
・ダイエットブログ更新。
【感想】
今日も少しずつローカル環境でツイートアプリの復習が進みました。
村上龍と坂本龍一 21世紀のEV.Café
1998年~1999年に行われた鼎談をまとめた本作。
冒頭の村上龍と坂本龍一の対談では、初回のE.V. cafeにあった若さや溌剌とした知的好奇心の勢いは無く、東日本大震災を経ての憂鬱な雰囲気が漂っています。
この鼎談から今は約20年後ではありますが、問題の本質は変わっていないように思いました。
特にマスコミと教育。宮台真司さんが「マスメディアこそ観察されるべき社会現象」と言ってましたが、改めて至言だと思いました。
また、一つ思ったのは自分のことでもそうなのですが、何かと問題を先送りにしがちで、問題を先送りにするために隠ぺいする国民性があるのかな?という点です。
なぜそうなるのか?ということについて、村上龍さんがかつてカルロス・ゴーンさんに「なぜ日本では隠ぺいが起こるのか?」と質問をされたそうです。
ゴーンさん曰く、隠ぺいしたいと思うのはどこの国の人も一緒だけど、日本はそういう不祥事に対して世間のバッシングが強いからというのが理由だそうです。
村上龍さんは「ミスをどうやって再発させないか、が大事じゃないか?」と言います。
最近は少しずつ変わってきているのだと思いますが、「ミスをする→責める→以上」というのがこれまでだとしたら、「ミスをする→改善する→共有する→再発を防ぐ」というものにしなければ、結局ミスを隠ぺいすることが合理的な行動になるんだと思います。
他にも、何かとメディアに登場する人は、聖人君子でなければならないというような、捻じ曲がった儒教的な潔癖さが息苦しさを生んでいると思います。
これらを総合してみると、何か問題が起きた時の流れとして、
問題発生
↓
世間から不作為なバッシングを受ける
↓
隠ぺいする
↓
ミスの無い状況が正しいと自己正当化する=認知的不協和を解消したいという心理
↓
改善がなされず問題再発
↓
以下繰り返し
簡単に言えばPDCA的な問題解決がなされないのですが、問題を何か大きなモンスターに仕立て上げる訓練を無自覚にしているように思うわけです。
そして結果的に問題が第三者に発覚した後に、誰もが「知っていたが言い出せなかった」と言うわけです。
それは、ミスを許さない文化と同時にミスの改善にはなぜか関心を示さない、もしくはミスを責めることにだけ関心がある(=頭を使わないでいられる)からと言えるのではないかと思います。
反省するという事が情けないと思うからなのか、”そもそも”を意識しない思考方法がそうさせるのでしょうか?
自分は一つ、謙虚さを誤って理解している道徳感にあると思います。
難しいことに首を突っ込むなんて、自分には荷が重いし、しゃしゃり出るなんておこがましいという事を謙虚さだと思っているんじゃないかと。
実際には、めんどくさいことは他人任せという自分の怠惰を正当化するための謙虚さでしかないと思うんです。
でも、そうなる背景にはミスをバッシングしたがる文化なのか国民性があるからと言えます。
ではどうするのか?と言えば、ミスを認める文化なのではなく、”そもそも行動した結果で何を得たいのか?”をしっかりと意識しようという事に尽きるんじゃないか?と思うわけです。
もちろんそれだけではダメなので、”人として”という倫理観を持ち合わせていくことが大切だと思いました。
「人の不幸は蜜の味」なんて言葉がありますが、今の世の中で人の不幸を楽しむ人はどれだけいるのでしょうか?
自分の感覚としては、昔ほど多くなくてどんどんそう思う人って減ってきている感じがします。
自分が不遇な環境にある人は、きっと他人の不幸を見ることで自己肯定感を得ているんだと思いますが、自己肯定感を充足できるコンテンツはたくさんあるし、不幸に近寄らなくても楽しいこともあると思います。
逆に人の不幸に近づくことは、自分に不幸を招くことであると世間が思うようになったら?それよりもその不幸な状態をどうやって脱しようかとみんなが考えるようになったら?と思うと少しだけ希望を感じました。
読んだ本の感想からかけ離れた内容になってしまいましたが、20年前のことを一つのサンプルとして見るのに、村上龍と坂本龍一という二人の天才が世の中を語っている事ほど参考になることは無いと思いました。
なぜなら、するどく時代の感性を掴むと共に、抱えている問題の本質もしっかりとつかんでいると思うからです。
それができるのも、自分に素直であることが一つ挙げられるんじゃないかと思いました。