こんにちは!
山本文緒さんの『ばにらさま』を読了しました。
プラナリアについでの本作でしたが、伊吹有喜さんの『雲を紡ぐ』の後に読んだので、読んでてて何かこうハートを抉られるような感じに驚かされました。
何を考えているか分からないけど、一緒にいる時は優しい彼女を冷たいけど甘いバニラアイスに例える彼氏。
段々とその彼女の本心に近づくにつれて、読んでるこちらの周囲が冷やっとする感じがしました。
出会った事は無いけれど、「こういう女の人いるよな」って思わされる人物描写のエグさは圧巻と言えるのではないでしょうか?
たまに妄想するんですけど、自分に憑依する能力があったとして、山本文緒さんに憑依したら世の中がどのように見ているのかな?と。
まだ二作品しか読んでませんが、山本文緒さんが見た、想像した人物を書き上げるのはどのような動機によるのか?描かずにはいられない衝動があるのだと想像しますが、その衝動が「こういう人間はいるものだ」という受容的な側面なのか、「見た聞いた以上は吐き出さないと自分がやられるから」という理由かもしれない。
どっちが良い悪いというよりも、一読すると自分の周囲にもいそうな人物を描いている作品なのに、氷山の水面下の秘めた部分の膨大さを感じさせる(読み手が勝手に誇大妄想してるだけ?)得体の知れないエネルギーに、作品の温度感のギャップを感じられるのが一つ魅力だなと思いました。
簡単に言えばその辺にいそうな人を描いてるだけなのに、なんか得体の知れないエネルギーがあるの何なの?って感じでしょうか。
とは言え、そうしたものを総称して芸術と呼ぶんだと思います。
次は自転しながら公転するを読みたいと思います。
それでは!