【読書感想】凡人として生きるということ:押井守著~ありのままの自分~

こんにちは!

今日は攻殻機動隊やうる星やつら、スカイ・クロラ、パトレイバーの監督でお馴染みの押井守さんの『凡人として生きるということ』を読みました。

自分のメッセージは作品に込めるのが監督しての仕事という押井さんが、若者に向けて書いた本であるとのこと。


ということで、早速感想を書いていきたいと思います。

ちなみに読書メーター参加してますので、簡易版の感想はコチラから。

押井守さんのやさしさ

自分がこの本を読んでまず思ったこと。

それは、押井守さんのやさしさ。


苦悩する若者に向けて、自身が経験した苦悩とそこから抜け出した考え方がまとめてある。

抜け出したというよりも、社会の中で打ちひしがれながらも自分の作品を作り続けてきた中で得たものを伝えてくれている感じです。


この本を読んでもらえば分かると思うんですけど、この本を読んでただちに苦悩が解決することはないんです。

20代前半の頃にこの本を読んでも、きっと共感する部分はたくさんあっても、じゃあ目の前にある苦悩はどうしたらよいのか?とやっぱり苦悩からは逃げきれないことに気が付くんじゃないかと。


じゃあ読んで何になるんだよ!と思う人がいるかもしれないですが、それについても本書の中に書いてあって、押井さんはこう言います。

「強者と弱者の両岸を行ったり来たりできるようになっただけだ。」P.36
「判断基準は自分の中にしかないことに気づくことが大切なのだ。」P.37

この二つの言葉が出てくる前に、オヤジになったことについて言及しています。

昔は「こうあるべき」という視点でがんじがらめになっていた若い時から、オヤジになったことで空手を始めて健康にもなったし、多少強さも得た。でも、疲れたら「還暦が近いから」とか「年寄りはいたわってよ」と言うなど、使い分けができるのがオヤジとのこと。


また、そうした使い分けをすることで本質は何か?が見えてくるわけです。

どういうことかと言えば、それまでが「自分はこうです!」と言っていたことが果たして正しいのか?が分からなくなることで、初めて「自分はこうです!」の元になっている考え自体が他者からの刷り込みであったことに気が付けるようになるということ。

一周して自分にとっての重要性を考える

「自分とはなにか?」という漠然とした疑問までいかずとも、これまでの自分は何だったのか?というのは、現実にぶつかって悩むことで初めて疑問に思う事ができます。

そうなった時に判断基準というものが自分の中にしかなく、いくら高尚な人や例え押井守さんであっても、言ってることが間違っている、もしくは自分はこう思うというものが出てくることが大切だというわけですね。


で、これまでが苦悩だけしかないと思っていたところから、「どうやらそうでもないかも」と思えるようになれる確率が高まります。

そうやって目の前のこと以外(二面性など)が見えてくることで、押井さんがいうオヤジに近づいていくことが出来る。


オヤジになれば、目の前の苦悩に対していかように対応できるわけです。

選ぶべき選択が自分にとって目標や絶対に譲れないものであれば曲げずに立ち向かうだけだし、そうでもなければ別に頭を下げるでもなんでもすれば良いわけですから。


ただその時にすると自分のためにも、周囲の人のためにもならないことがあります。

「妙な理屈をつけて自分を慰めることだ。」P.85

これをすると自分の中の判断基準が分からなくなってしまうんです。


自分の判断基準が分からなくなると、目の前に迫られた選択からは解放されるんですが、どこかでその事が魚の骨のように引っかかって、次の選択、その次の選択と迫るものから逃げ出そうとしてしまうことになります。

すると折角のチャンスをものに出来ない確率が高くなってしまいます。


ただ、この事自体一つの経験なので、逃げたかったら逃げるのは間違いじゃないです。

でも、どこかで向き合わなければ自分が望む方向には進むのが億劫になっちゃうんじゃないかって思います。


苦悩は絶えないけど苦悩を引き受けられる度量を身に付けることが大切です。

これは、押井さんの、

「一度は戸惑ってみてもいいではないか」P.36

という点に大きく賛同したいです。

あやふやだから大切にした言葉

この感想自体はあくまで自分の感想であり、一つの参考になれば良いのですが、それでも参考にならないことの方が多いはずです。

というのは、それまでに積み上げてきたものが違うので、人によっては「難しく考えすぎ」という人もいるでしょうし、「読み込みが甘い!」と思う人もいるでしょう。


ただ、そういったお互いが分かってるようで分かっていないのは、逆説的にみんな同じという事実があります。

そうであるからこそ、お互いを知ろうとすることが大切ですし、その知り合うツールとしての言葉を押井さんは大切にしたいと最後にP.176の『今こそ必要な言葉の有効性』という部分を一読してみて欲しいです。


そして、言葉もいきつくと実際は言葉というものも空虚なもので、実はその言葉に命を与えているのがその人自身の人間性であることに気が付くと思います。

でもその人間性が培われるのには言葉が必要という。


この一連の流れというのは、どうしても遠回りのように思うかもしれないんですが、赤ちゃんの成長を見ているとなぜそうなっているかが良く理解できます。

赤ちゃんなんて最初は何も出来ない所から、自分の知り得る世界の中で興味を持ったものに向かって突き進みます。


自分で栄養を取ることが出来なかった状態から、自分でご飯を食べられるようになりますが、最初は腕の動かし方、スプーンの使い方が上手に出来ないので、口の周りをべちゃくちゃに汚します。

で、食べられるのは僅かという。


その積み重ねの中で段々とスプーンで運んで食べられる一回の量が増えていきます。

成長するとそうした間の工程を無駄だと思うようになってしまいますが、欠かせない作業であることを理解すれば、失敗ということが小さい積み重ねの結果の一つであると思えるんじゃないかと思います。


というのが、現在の自分が考える一つの意見です。

あなたはどう思いましたか??


それでは!