【読書感想】平野啓一郎さんの『私とは何か「個人」から「分人」へ』〜分人主義〜

平野啓一郎さんの『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読んで

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。つまり、前章の最後に述べた、他者を経由した自己肯定の状態である。(P136)

こんにちは!

久々に読書感想を書きたいと思います。

本日紹介するのは、平野啓一郎さんの『私とは何か「個人」から「分人」へ』です。

 

この本を読むきっかけになったのは、文学Youtuberベルさんの最近買った小説以外の本という動画でした。

 

ベルさんは本書以外にも、平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』を紹介されていたり、最近の動画では平野さんの本の中に出てきた森鴎外の『渡瀬船』を再読した動画を出されていました。

そんなベルさんが平野さんのTEDの動画のことも取り上げていて、それを見たことをきっかけに本書のテーマである分人主義に興味を持つことになりました。

 

正直ベルさんの動画と平野さんのTEDと本書を読んでもらえれば十分なので、自分の感想なんてどうでも良いのですが、いいものは勧めたい!!

という欲求のまま感想を書いていこうと思います。

 

こんな人にオススメ!

平野啓一郎さん著の『私とは何か「個人」から「分人」へ』は次のような宣伝文句で売られています。

「嫌いな自分を肯定するには?

自分らしさはどう生まれるのか?

他者との距離をいかに取るか?

恋愛・職場・家族……人間関係に悩むすべての人へ。

小説と格闘する中で生まれた、目からウロコの人間観!」

ということで、おすすめしたいのは次のような人です。

 →本当の自分って何?って思ったことのある人。

 →自分が好きになれないと感じる人。

 →多様性について一歩深く考えてみたい人。

 

多様性って昨今はやかましい位に言われていますが、今ひとつ腹落ちしないで肯定している人もいるんじゃないでしょうか。

っていうか自分自身がぼんやりしたまま肯定していたのですが、もしかしたら多様性ってこういう事かも!、と本書を読むことで理解出来る気がしてくると思います。

 

個人と分人

皆さんは、先程の多様性に比べれば「個人」という事は理解しているよ!って思う人の方が多いと思います。

でも今回はもう少し個人を深掘ってみたいと思います。

 

『私とは何か』の中では「個人」という言葉が近代に輸入された言葉であることが紹介されています。

”ディビジュアル”(分ける)に”イン”を付けて否定の意味にした”インディビジュアル”(不可分な)という言葉が日本に入ってきた時に、単一のとか一という概念を用いて独一個人という言葉になり、それが個人に変遷していったという話が巻末の補足にありました。

個人って言う言葉が輸入されたもので、しかも近代というのが興味深いですよね。

それ以前は、どうやって認識されていたのかも気になります。

それで、平野さんは個人について、

個人という単位の大雑把さが現代では対応できない。(P6.)

と話しています。

詳しくは後ほど書きたいと思いますが、「私とは何か」を考える上で、個人というレベルでは平野さんが仰るように大雑把過ぎて対応できないというか、矛盾に苦しむ事になるのですが、分人という単位で考えてみると・・・?

きっと、スッと色々な事が腹落ちしていくんじゃないかと思います。

 

著者紹介

さて、その分人についてを書いていく前に著者である平野啓一郎さんについて。

最初に平野さんの各メディアについてはこちら。

Twitter:https://twitter.com/hiranok?lang=ja

公式ページ:https://k-hirano.com/

wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%95%93%E4%B8%80%E9%83%8E

 

次に経歴にですが、1998年に発表された『日蝕』でデビュー。

当時最年少23歳で芥川賞受賞。 三島由紀夫の再来と言われたそうです。

その他に、福山雅治さん、石田ゆり子さん主演の映画『マチネの終わりに』は渡辺淳一文学賞を受賞。

代表作として、前期分人主義として『決壊』、『ドーン』が。

後期分人主義の代表作として『マチネの終わりに』、『ある男』があります。

今月5月に新作『本心』が発売されます。

っていうか今日発売みたいです。

他にもオスカー・ワイルドの「サロメ」の翻訳もしているそうです。

 

そんな平野さんの作品は、その幅の広さと共に世代の幅も広いようです。

平野さんが一歳の時に父親を突然死で亡くしておられるようで、その事については動画などで話をされていました。

 

 

「個人という単位の大雑把さが現代では対応できない。」

さて、ここから本編というか感想を書いていきたいと思います。

平野啓一郎さん著の『私とは何か』ですが、次の5章で構成されています。

第1章 「本当の自分」はどこにあるか
第2章 分人とは何か
第3章 自分と他者を見つめ直す
第4章 愛すること・死ぬこと
第5章 分断を超えて

個人というこれまで不可分と考えられていた概念で物事を捉えることが限界を迎え、平野さんが小説を書く中で個人を構成する更に分人という考え方をするに至った経緯や分人主義という立場で考えた対人関係、愛、死、より良い生き方が書かれています。

 

そんな『私とは何か』を読んで自分がお伝えしたいポイントは2つです。

・個人ではなく分人として考えるとは?

・人を愛すること

の二点です。

では早速その2つについて詳しく解説したいと思います。

 

個人ではなく分人として考えるとは?

対人関係の考え方についての悩みに答える本はたくさんあると思います。

アドラー心理学の『嫌われる勇気』とか『7つの習慣』などベストセラーはたくさんありますよね。

 

しかし、多くは自分と他人という視点であり、いわば個人対個人です。

その個人レベルでの対人関係に対して有効なテクニックが書かれている本がほとんどだと思います。

先に挙げた2つに関してはもう少し奥深い点はあるものの、個人という単位で考えている点では同じでう。

 

一方で、個人を更に分人という単位に分けて考える事はどういうことでしょう?

それは、”家族や友達と過ごしてリラックスしている自分”と”苦手な上司と一緒にいる時の自分”は、同じ自分ではあるものの、それぞれを分けて考え、分人として呼びます。

 

例えば、対人関係を良くしたいと考える時に自分に原因があるのか、相手に原因があるのかという問題に立ち返ると思います。

その時に、家族や友人といる自分は対人関係として問題無い。

でも苦手な上司といる自分は対人関係として問題がある。

 

となると、対人関係の問題は自分が悪いのか?相手なのか?となるでしょう。

でも。

分人として考えるとシンプルです。

 

”家族・友人といる分人”は対人関係が出来ている。

”苦手な上司といる分人”は対人関係に問題がある。

このように、そのまま2つの分人がいると考えるのです。

 

そう考えると、自分の対人関係上のコミュニケーション能力に問題があるのでは無いことが分かります。

なぜならば、家族・友人といる時はリラックスして会話が出来るので、コミュニケーション能力は問題ないからです。

 

一方、苦手な上司との間でのコミュニケーションにだけ問題があるとすれば、自分にも改善の余地があるが相手方にも問題がある、と素直に考えられると思います。

相対している人によって異なる分人が自分の中にあって、一方ではうまくいく事も別の一方ではうまくいかない。

 

このように考えると、個人という単位では、”うまくいく時”と”いかない時”の原因が、すべて自分にあるように感じてしまうところを分人という単位で考えることで、問題は自分だけじゃなくて相手側にもあるのではないか?と考えられるようになるのです。

 

平野さんは次のように述べます。

「人格は一つしかない」、「本当の自分はただ一つ」という考え方は、人に不毛な苦しみを強いるものである。(P95)

・他者を必要としない「本当の自分」というのは、人間を隔離する檻である。〜中略〜「本当の自分」という幻想を痛感させられるだけだ。(P98)

個人を分人という単位に分けると「もっと複雑になるのでは?」と考えてしまいますが、実際にはよりシンプルに考えるための方法論とも言えるのではないでしょうか?

 

人を愛すること

人を愛するという時に、その愛の程度を数値としてみることはできません。

自分が相手を愛しているならば、どうやってそれを知ればよいでしょうか?

 

普通は、相手に対して愛情の表現として言葉で「好き」や「愛してる」と伝えますよね。

プレゼントをしたり、サプライズをしたり、相手が喜ぶ事をしようと考える自分の行動がその愛を示していると考えられてきました。

 

しかし、分人主義という立場で考えた時には、別の視点で考えます。

それは、言葉や行動で愛情を示している時の”自分が好き”という点です。

 

これについては冒頭でも引用しましたが、

「愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。つまり、前章の最後に述べた、他者を経由した自己肯定の状態である」という事です。

 

この「相手が好き」という事と「好きな相手といる自分が好き」はどちらが先という事を考えるのは難しいのですが、決定的な違いを例に表すとストーカーが挙げられます。

ストーカーも一つの文脈で語れば「その人といる時の自分が好き」という言い方ができるかもしれません。

また、相手は望んでいないどころか、嫌悪さえしているのに愛情を言葉や行為で示します。

 

ただ、決定的に違うのは平野さんが言う分人主義としての愛とは、先ほどの引用にもあるように「他者を経由した自己肯定」という、他者の分人を経由している事実があります。

 

一方で、ストーカーはどうでしょうか?

相手を経由しているのではなく、相手を利用して自己肯定をしているだけに過ぎないのです。

なぜならば、他者を経由するという事は一方的なものではなく、双方向でのコミュニケーションだからです。

 

ストーカーは相手の反応を自己の都合の良いように解釈しているため、本人が「相手も自分を愛してくれている」と語っても、その実、相手のレスポンスを受け止めずに自己の中だけで完結しているので、相手を経由した自己肯定にならず、愛とは言えないわけです。

愛という言葉を用いるなら”自己愛”とすべきでしょう。

更に言えば、一方通行故のコミュニケーションなので自己肯定も出来ないはずです。

 

このように考えていくと、自分の発言や行動の多寡にだけ愛情を見てしまうと、ストーカーと変わらないという論理になってしまいます。

しかし、「その人といる自分が好き」という他者を経由しての自己肯定という点で考えれば、相手と自分のレスポンスが双方向存在している事を確認し合い、やり取りをしている自分が好きという感情が自己肯定を育むことになります。

 

一番好きな一節

この本の中で自分が一番好きな部分は、冒頭でも先ほどの人を愛する事でも挙げた次の一説。

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。つまり、前章の最後に述べた、他者を経由した自己肯定の状態である。(P136)

なぜ、この一説に深く関心を寄せたのかというと、愛するという事の曖昧さが晴れると同時に、愛が一方通行ではなく相手も自分も含めたものであると確信できるからです。

自分のことを顧みないで他者に尽くす姿を、人は美徳として見たり、そんなのは偽善だという見方をしたりと、他者への貢献が受け取る人によって異なって見える事があります。

 

このように見えてしまう原因は、愛というものは無私・無償の施しであるという、ある意味で人間の欲を無視した道徳観の押し付けにあると考えます。

子どもに対しての愛は無私・無償である。だから尊い。そんな言い方をすると思います。

確かに自分自身、子どもの命の危機になったら自分の命を差し出してでも助けたい!、と本気で思える事を考えれば、無私・無償の愛と思わない事もありません。

 

でも、自分も人間です。

見返りが欲しいとは思いませんが、事実として命を賭して子どもに貢献できるという喜びは存在していると思います。

「自分の命で子どもが救えるなら」と思う親の、子を経由しての自己肯定は確実に存在していると思います。

 

もし、それすらも欲とみなしてしまったら、無死・無償の愛は感情を持たない他者貢献という位置づけに堕ち、ロボットによる義務・命令と変わらない行為になってしまうのではないでしょうか?

そうではなく、”子どもの事を考えて命を差し出すという行為”と、対になっている”子への貢献を経由しての自己肯定”は、両方セットで初めて愛と呼ぶことができると言えます。

これが自分の分人を相手の分人を経由した自己肯定という事だと思います。

 

ちなみに、平野さんは本書の中で愛と恋の違いについて話していて、今話した愛についても永続的な関係を希望するという前提がある事をお伝えしておきたいと思います。

 

タイトルの意味に立ち返る

『私とは何か』という本のタイトルに立ち返ってみましょう。

 

個人という単位で自分を見てみると、矛盾を感じることがありませんか?

家族や友人といてリラックスしている自分がいたかと思いきや、小さな事で腹を立てる自分もいたり。。。

すると、どれが本当の自分なんだろう?と思いませんか?

 

それを分人という単位で分けて考えてみたら、Aさんといる分人、Bさんといる分人とに分ける事で本当の自分とは何かという疑問には立ち返らず、どちらも自分として見る事が出来ます。

なぜなら。

好きになれる分人とそうではない分人が存在しているだけで、その割合が自分の中で違っているだけだからです。

 

この割合を個性と平野さんは言い、分人単位で考えることを提唱しています。

 

個人という単位で考えてみましょう。

例えば、小さな事で腹を立てる自分は好きじゃないとします。

そう思う機会が多ければ多いほど、本当の自分は小さい事で腹を立てる人間だ、と規定してしまうでしょう。

一方で、家族といて安心して会話をしている自分や、好きな人には小さな事でも腹を立てない自分を感じると、どっちが本当の自分なんだと、「私とは何か」で苦しむわけです。

 

でも、分人として考える場合は、小さな事で腹を立てる自分が多いという事は、そうした人物と接触する機会が多いからと考えます。

そう考えられるのであれば、腹を立てる人物と接触する機会を減らせないか考える事が出来るようになります。

一方で、リラックスして楽しむ好きな自分が分かることで、そういう自分になれる時間を増やそうと考えるようになれるでしょう。

 

つまり、分人主義という考え方は、個人単位で考えると苦しむことになる「私とは何か」から脱却して、分人という単位で見直すことで、自分を捉えている枠組み(パラダイム)を認識し、変化させていくためのきっかけを作ってくれる考え方だと言えます。

 

そして、大事な点は、分人が存在するためには必ず他者が存在することになります。

一人でいる時はモノであったりしますが、そうしたモノであっても作っているのは人です。

「私はこういうモノが好きだ」と捉える事になったとしたら、いつかそのモノを作った人との分人の割合を増やしたいと思うでしょう。

 

そこを足がかりにして他者との繋がりを少しずつ作っていくこと、同じように少しずつ足がかりを作っている人が世の中にはたくさんいると認識すること、それは他者を思いやる利他の思考であり、同時に自分を大切にする思考でもあります。

 

多くの人が分人主義で行動する未来はどうなるでしょうか?

少なくとも息苦しい世の中ではなくなっていると私は信じています。

 

まとめ

今回の感想では、本の内容の10%もお伝えしていないと思います。

でも、分人として考える事で「私とは何か」と考える自分の枠組み・パラダイムを認識することが出来て、その分人の中で自分で自分を好きになれる分人の割合を増やそうと考えられるようになります。

そうなれば、付き合う人を変えるなど具体的なアクションも起こしていけますし、自分が好きなものは何で、どうしていきたいのか?と考える事が出来るようになります。

 

その指針として、自分の中の分人は他者の分人の中で、どの分人と相対する事を望んでいるのか?と見る事が大切になります。

あくまで、自分都合ではなく他者を経由して自己肯定感が上がることをポイントにすることで、「私とは何か」がより理解していけるんじゃないかと思いました。

 

平野さんは、

今つきあっている相手が、本当に好きなのかどうか、わからなくなった時には、逆にこう考えてみるべきである。その人と一緒にいる時の自分が好きかどうか? それで自ずと答えは出るだろう。(P139)

と述べています。

 

個人という単位ではなく、分人として自分を捉えることは、「私とは何か」を表し、有りたい自分を考える時の指針として活用すれば、自己肯定感を高める人の割合を増やすために必要な事を選択していけると思います。

平野啓一郎さんの『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読んで、色々な矛盾から解放された気分です。

分人主義というエッセンスをまとめた本書ですが、平野さんが書く小説には分人主義を物語に落とし込んでいます。

映画『マチネの終わりに』も見ましたが、分人主義という視点で見ると、大人の恋愛映画だけでは終わらせない深みを感じられると思います。

気になった方は、本書と共に平野啓一郎さんのその他の作品も是非読んでみて下さい。