【新・日記10】本日やった事と感想+森鴎外著:高瀬舟を読了。

【終わったタスク】

5/28(金)

◆勉強


・高瀬舟 森鴎外著:読了。

・アサーション本読む。

◆運動

無し。

◆その他

・ダイエットブログ更新。

・5/29の予定を決める。

・転職ブログ更新。

【感想】

平野啓一郎さんの『本心』にも登場した森鴎外の『高瀬舟』を読みました。

 

とても短い短編で、「ふむ」と納得とも納得していないとも取れる感心をするに留まってしまいましたが、この話が翁草という奉行所に勤めていた人の記録をまとめた随筆で、実際にあった事だと思うと少し驚きました。

安楽死というテーマは『本心』のキーになる部分であり、『本心』に戯曲という形で登場したのも理由があるのだと思います。まだ読み解けていないのですが。

死を望み苦しみから解放を願う弟の願望を叶えることは、果たして罪なのか。

同じく『本心』に登場する主人公の朔也の母が望んだ「もう十分」という理由の自由死の選択。

これらを考える上でも平野啓一郎さんの分人主義という立場での、関係する人の分人の死という視点が必要になるのですが、何分その点については自分の中で理解できていません。

ただ、一つヒントになりそうなのが、 『私とは何か』の次の一節。

私が口出し、影響を及ぼすことが出来るのは、相手の私に対する分人までである。(P104)

この点で考えると、良い悪いという問題は超越して考える必要があるのは、死への考え方はその人の個人単位での結論に至る必要性があるためだと思います。

ただ、それは他人は相手の死に対して影響を与えられる可能性の低さを物語っているとも言えます。

死を願う人の周囲にいる人の分人の死への考え方は分人として影響を持つものの、個人対分人として考えを同じにする事は極めて難しい事を、『本心』においては主人公の朔也が母のVF(ヴァーチャルフィギュア)や三好や愛人、その愛人が知っていた朔也の父の存在などなど、母の分人のを追う中で本心に至った事で現していると思ったんです。

つまり、分人単位で見なければその人の本心はわからず(全ては分からないけど)、個人に対して影響を与えることは出来ないという事は、死を考える上での単位である個人に分人は相手の分人にのみ影響を与えるだけである事から自由死への理解は他者では理解が難しいと思います。

死への理解は自分自身以外には遂にはありえないと思いました。

私としてはイコールで自由死の是非については、他者や世間の主張は当事者に影響を大きく与えないととするならば、考えるべきは自分自身の死についてのみだと思いました。

一方で、死を願う人の思いは周囲の当事者の分人に影響を与えるという事実は、死に際して一考すべき事を自分は学べた気がしました。

最後に、森鴎外が高瀬舟を通じて知足や安楽死のテーマを用いたのは、森鴎外自身が高瀬舟縁起の中で、

私にはそれがひどく面白い。

と語るように、本質的な是非よりもテーマ自体に関心を寄せたの書いた作品であると思います。

その是非の結論に至ったのかは不明ですが、森鴎外自身の答えは秘めていたんじゃないかと思いました。

きっと、考えない事にはいられないテーマだと思ったからです。