【読書感想】『苫米地英人、宇宙を語る』~苫米地英人著~宇宙が生まれたのは寂しいから?

【読書感想】『苫米地英人、宇宙を語る』~苫米地英人著~宇宙が生まれたのは寂しいから?

こんにちは!

久しぶりに読書感想を書きたいと思います。

今年に入ってからも何冊か本を読んでたのですが、感想を書くには長大で根気が続かなそうだったのブログには書かないでいました。

今回は、苫米地英人博士の2009年12月28日に発売された『苫米地英人、宇宙を語る』です。

読書メーターに投稿した感想はコチラ↓

感想要約

P27「なぜ、宇宙が生まれたのか。寂しいからです」という冒頭から目から鱗な展開。イメージしやすいのは現代のSNSです。自分だけで楽しんでいるだけではつまらない、物寂しいから他者と繋がりたいという欲求を実現する場としてのSNS。宇宙の存在も他者と関わりを持つための場であるという話から始まります。この本の行きつく先としては、幸福というものをどう考えるかという哲学的、自己啓発的な内容なのですが、これらは苫米地さん自身の”戦争と差別のない世界”というゴールが存在するが故だと改めて理解しました。おすすめです。

さてさて、ブログでは少し深堀りして感想を書きたいと思います。

内容としては、

・なんで宇宙が存在するのは”寂しいから”なのか?
・他者の存在を信じたい理由
・全部自分が作りだしたもの
・時間軸の捉え方
・不確定性を知る
・この本が書かれた理由
・まとめ

の7つに分けて書いていきます。

最初に結論を言えば、幸福に生きる(戦争と差別が無い)という事を考えるためのきっかけなれば、というのがこの本の書かれた理由だと思いました。

そこに至るために、自分の人生というものがどのように存在しているかを、宇宙と自分というものを通じて考える必要があります。

そして、そこには他者の存在と共に不確定性があるという点がポイントになると思いました。

このような結論に至った内容を掘り下げていきます。

長いので、気になる人だけ読んでみてください。。。まとめるのが下手ですみません。

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なんで宇宙が存在するのは”寂しいから”なのか?

宇宙が存在するのが”寂しいから”と言った人、言う人は現代では苫米地博士くらいじゃないかと思います。

そもそも宇宙の始まりのビッグバンが何故起きたのか?という事を説明できる人はいないんじゃないかと。

で、苫米地博士がなぜ宇宙が生まれた理由を”寂しいから”と言ったのかというと、本の中で未来の世界においては、人間は身体が無くなって脳だけの状態になります(大体1000年後くらい)。

つい最近読んだ本で村上龍さんの『歌うクジラ』という100年後の未来の日本を描いたディストピア的な内容の本にも出てくるのですが、医療技術の進歩により選ばれた人間(最上層の人)はその時点の最終系として脳だけが本人のものでそれ以外は、機械や人口の細胞などで出来たサイボーグのような存在になっています。

最近、都市伝説系で人気のMr.関さんも人間がICチップを埋め込んだりして、身体を機械化していったりする未来について話していました。

人間選別が始まっていて、どんな選別がされるかについては、人間の体はあくまで入れ物で脳にある情報がその人自身であり、その情報をサーバー上に保管して地球という惑星から避難できる人を選別しているという都市伝説です。

他にも映画マトリックスの世界でも脳にプラグを差し込まれて、現実だと思って生きていた世界が実は見せられた夢だったという話も同様です。一方で、その事に気が付いてからリアリティの世界の存在を知り、世界の崩壊を救うべくマトリックスの世界に入って人工知能と戦うわけですが、その中では主人公のネロはイメージの具現化の力でエージェントスミスと対決します。

 

話がとっちらかってしまいましたが、これらに共通するのは、人間の存在が究極までいくと脳=情報という存在になるということです。

そして、情報的な存在になると見るものも全て自分の好きなように出来るわけです。

それが何故かといえば、情報的な存在ですから物理的な制約が無いからです。分かりやすくいえば、寝ている時に見る夢を完全にコントールしているのと同じと言えます。

 

しかし、例えば悲しいことがあってそれを乗り越えられた!というストーリーがあったとします。でも実はそれすらも自分が生みだしていたという事実に気が付いた時に感じるのは、寂しさという事になるわけです。

そこで制約を設けた宇宙という場をみんなで共有できるスペースとして作ったという話がプロローグで書かれています。

 

ここまで読んで、自分としては「なるほど~」と思わずにはいられませんでした。

人は一見するとコミュニケーションができているように思いますが、根本的には他人とは同じものを見ることが色んな意味で出来ていません。

目の前に木があった時に、その木を見ても枝を見たり葉を見たりと違ったりしますし、その木の特定の部分を見るように指定されても、そこから想起する内容は異なります。

何故かといえば、木に対してのその人その人に知識の差や理解の差、思い出なんかは生まれが違えば全く異なるからです。

表面上は同じ木を見ていて、同じ木を見ていると相互に確認し合う事が出来ても、根本では同じ木は見られないというわけです。

 

そうなると、他者という存在と人は交わることが出来ないことになりますが、日常的にはコミュニケーションがとれているようにも思えます。

しかし、もし究極に進化した状態ですべては自分が作っているとしたら、他者の存在自体、自分が作りだしたことになってしまいます。

すると人というのは、孤独というか、孤独という概念が存在する余地が無いほど独りという事になります。イメージしただけでも寂しさを感じちゃいます。

 

他者の存在を信じたい理由

人によってはそれで良いと思うかもしれませんし、中には結局一人なら何もいらない、と考える事を放棄する人もいるかもしれません。

JOJOの第二部で究極生命体のカーズという敵キャラをご存知ですか?

宇宙に吹き飛ばされてしまって、一人になったカーズは最終的には考える事を止めるという結末にいたるのですが、これも死ねない存在で他者の存在が永遠に無いと判断し、考えることを止めたわけです。

死というものに恐怖を持つ存在は、必ず他者の存在が必要ということになります。

 

他にも、ゲームの聖剣伝説のレジェンドオブマナというシリーズのストーリーも面白い内容でした。

ネタバレ含むので注意です。

レジェンドオブマナの中に登場するラスボスのマナの精霊は、元々は光の存在で宇宙の中で唯一の存在でした。

そこで自分の存在を知りたいと願ったマナは影を生み出し自分の事を知るわけです。

自分以外の影が生まれたことで、人と人との隔たりが生まれたというような話が出てきます。

 

ちなみに、今年公開予定のヱヴァンゲリヲンでは、ATフィールドという存在を取り払って一つになろうとする人類補完計画という、他者との境界を無くして亡き人と一つになろうとする話ですが、逆説的に孤独に耐えきれない人の弱さを描いているともいえます。

 

他者が居ないとなると自分という存在もあやふやになってしまいます。

すると存在しなくなるか、孤独を紛らわすために他者を作り出す=他者が存在すると信じるということになります。

他者の存在を信じるためにも、共通して認識が出来る(五感や言語というチャンネル)場として宇宙が生まれたというのが、苫米地博士の意見です。

また、他者の存在については一人が一つの自分の宇宙を持っているとも言えます。その様々な一人ひとりの宇宙が交わる場所が今生きている宇宙という言い方もできます。

ただし、その他者という存在が自分とは独立したものであるかは不明ですが、苫米地博士の立場としては自分が存在する以上は、他者も存在しているとしているのだと思いました。

 

全部自分が作りだしたもの

宇宙を作ったのは自分という事になると、じゃあ思い通りにいかないこの現実はなんなのよ!という事になります。

しかし、この点もよくよく考えると、ある時点で自分が未来を想定して選んだ選択の結果ということになります。

「生まれもって障害を抱えているのは?」と思う人もいると思います。

生まれ持っての障害は、自分の選択ではありません。

しかし、もしその障害があることで現状に不満を持っている人がいる一方で、障害をものともしないで溌剌としている人もいます。

その違いが何かと言えば、その瞬間瞬間自分がどうありたいかを考えている差になると私は思います。

つまり、障害を持っていても持っていなくても自分を幸せ者だと思えれば、幸せだということです。逆もまたしかりですが。

物理的な存在を自由には出来ないのですが、在り様(情報)は自由自在というわけです。

更にここで時間軸の考え方を未来から現在そして過去に流れていると考えていくと、全部自分が作りだしたものということが見えてきます。

 

 

時間軸の捉え方

『苫米地英人、宇宙を語る』のプロローグの冒頭にも時間の捉え方について、通常考える過去→現在→未来という考え方ではなく、この本においては未来→現在→過去という捉え方で話を進めています。

この本の構成のすばらしさが冒頭にあると言っても過言じゃないと思います。

さて、時間が未来から現在を通って過去にいくというとイメージし辛いでしょうか?

例えば、目の前の花瓶があった時に、誤って手を触れて落下して割れたとします。

確かに物理的な世界の変化として見た場合は、手を触れた→花瓶が落下した→花瓶が割れたという流れになり、手を触れた過去が要因になり花瓶が割れるという結果が未来に現れました。

しかし、ここに意思が介在したらどうでしょうか?

花瓶に触れてみようと意思が働いた場合、花瓶に触れてみたという物理的には存在しないけれども、イメージとしての存在が生まれます。

これは未来でのイメージですが、時間軸としては未来の出来事になります。

未来におけるイメージが無ければ花瓶に触れることも無く、割れるという結果もありません。

つまり、未来においてのイメージが現在に現れて、割れたという現実が過去に流されます。

その後は、花瓶の掃除をするという未来のイメージがあって、実際に割れた花瓶の掃除に取り掛かります。

このようにイメージ(情報)という存在まで含めた時には時間というものは、未来→現在→過去という流れになります。

 

ここまでくると、時間というものをどうとらえるかというと、私自身は時間はあるとも言えるし無いとも言えるという事になってきます。

何故ならば、時間というものが特定のポイントから時間が進むに従いポイントが移動することとした場合、流れが過去から始まるのか未来から始まるのかはどちらでも良いとすれば時間はあると言えます。

でも、それは見る人の視点や捉え方で変化する訳ですから、自分が都合よく時間を利用しているとすれば、元々は存在しない時間を自分でこじつけているだけという言い方ができます。

ということは、時間を単体の概念として考えると”無い”という言い方もできるわけです。

 

不確定性を知る

この本の構成の素晴らしい点についてもう一つ。

それは不確定性原理、不確定性定理について解説をしている点にあります。

これまで話をしてきた部分において、時間の存在も含めてすべては不確定性を含むという言い方ができます。

不確定性を含むことの何が重要なのかについて考えてみました。

 

例えば、「全ては自分が作りだした世界」だったとしても、そこに不確定性を含むことを入れなかったとしたら大変なことになります。

何故かといえば、悪い人が考えたら「他人は全て自分が考えた存在だ!」と妄言を吐く事で、人を殺める事が(その人の中で)正当化されてしまうからです。

他人の存在に対して尊厳を持てない思想は、悲惨な事件を生み出します。

その最たるものが戦争であり、個人レベルで言えば差別やイジメという言い方もできるでしょう。

 

しかし、ここで「全ては自分が作りだした世界」というものと共に、不確定性を含むことを考えれば「全ては自分が作りだした世界」であるともいえるし無いとも言えます。

もしかしたら、自分が作った世界のようで、実はやはり他者が関わるものだったとしたら自分以外の存在の尊厳を奪うことになります。

 

つまり、「全ては自分が作りだした世界」と良い方向(自分と自分以外の利益の為)に考えるのであれば良いでしょう。

一方で、自分自身の欲望のために誰かの尊厳を奪うことはしてはいけないと思います。

 

しかし、この世の難しいところはいけない事であったとしても存在する可能性があるという点です。

不確定性を含むということは、自分にとって不都合な現実が存在するということもあるからです。

 

ただ、個人的にはだからこそ自分以外の世界の事について思い悩むのではなく、様々な事が起こりうる世界において自分自身を如何に貫くかが大切だという事になるんだと思いました。

 

この本が書かれた理由

ここで苫米地博士がこの本を書かれた理由について考えてみました。

それこそが、先ほどの自分を貫くことの大切さに繋がります。

また、苫米地博士にとって自分を貫くこととして、自身のゴールとして発信している「世界の戦争と差別をなくす」という所に帰結していくのではないでしょうか?

 

ここまで読んで宇宙の存在理由について読んでみても、結局自分が作った宇宙の中での出来事であるとも言えるし、そうではなくてもしかしたら不確定性によってたまたま存在しているだけとも言えると考えられてしまいます。

そして不確定性原理により、観測すること(意識すること)が存在に影響を与えてしまうということは、確定的なものの見方は限定的な部分になるということです。

限定的な部分というのは、”ある条件下では”という但し書きがつくというと分かりやすいと思います。

 

そんな世界に生きている中で自分がどうあるかは自分自身が決めていくことが大切です。

そして、そう気が付くためには世界がどなっているのか?を一度高い視点で認識してみる必要があります。

現在の状況を不幸だと嘆いたとしても、この世界は自分が作りだしていると思うことで現状を打開することが出来るでしょう。

ただ、思うだけで現状が打開出来ると思うのはカルト的な考え方です。現状は打開できる(見方を変えればなりたい自分になる)と考えるから、現状すべきことが何かという事に意識が向くようになります。

見ているものが現状の不幸な状態(という情報)からなりたい自分になるために必要な情報へ目を向けることになるわけです。

そうすれば、自ずと自分の周りの環境も変わっていくことだと思います。

 

私自身も見たいものが変わることで、これまでの自分自身の在り方が変わり環境が変わりました。

例えば今現在でいうとジム通いなんてするとは思っていなかったのに、週3、4日ジムに通うようになりましたし、iHerbでサプリメントを探したり、栄養素やトレーニングについて勉強するようになりました。

この経験は誰もが大なり小なりしていると思います。

それをもっと意識的に自分に都合よく、かつ出来れば他者のにとって有益であるようにと考える人が増えることが、苫米地博士にとってのゴール『世界の戦争と差別をなくす』に近づく手段なのかな?と思いました。

 

まとめ

さてさて、長々となりましたが、都市伝説系の話が好きな自分としては、「宇宙とはなんぞや?」、「地球以外には人がいないのか?」、「なぜ人は生きて死ぬのか?」などなど考えることが好きなんです。

そこに苫米地英人博士が宇宙を語るとなれば読まずにはいられないタイトルでこの本を手にしました。

この本の魅力というのは、現代科学の先端の考えと根本になる不確定性についてを抑えつつ、これからの未来を見据えた上で人間とはどうあるべきか?を苫米地博士のゴールを通じて展開している所にあります。

言うなれば、物理学の本ではきっともっともっと具体的な話になるものの、具体的になればなるほど矛盾に陥っていくために、宇宙の存在が分からなくなるループに入るのですが、物理学的な部分も抑えつつ、抽象度を上げていくことで宇宙の存在の理由の一つの見方を示しているとことになると思います。

「宇宙ってなんであるの?」→「全て自分が作ってるんだよ」→「でもそこには不確定性が働くよ」→「じゃあなんであるか分からないよね」→「そんな宇宙がなんであるの?」

と無限ループしそうですが、自分が作っているかもしれない、全てには不確定性が働いているから良くも悪くも絶対は無い、そんな世界で生きているなら結局自分がどうしたいかじゃない?と思えれば儲けものではないかと思います。

自分がどうしたいか?という視点が生まれれば、これまでに何となく選択していた事に対して意識的になることが出来るようになります。

これまでだったら選択しないようなことを選んだことで、それまでの自分の人生にとってはありえなかったことが起こる可能性が出てきます。

確率で言えば数%かもしれませんが、これまでが何も考えていなくて0%なら大きすぎる変化と言っても良いのではないでしょうか?

これまで色々な自己啓発系の本を読んできましたが、この苫米地英人博士の『苫米地英人、宇宙を語る』は知的好奇心を満たすと共に、自分の在り方を見直すきっかけにもなりますし、「宇宙って寂しいから存在しているんだぜ」という話のネタにもなる本だと思いました。

興味が湧いた方は是非手にしてみてください。Amazonの中古だと350円くらいで買えます(※2020/1/10現在)。

また、ご意見と感想はご自由にどうぞ。

それでは。