【日記】ゲーム依存がやばいじゃなくて自分を信頼しなきゃって話
こんにちは!
今日はゲームについての記事で気になるものがあったのでシェアしたいと思いましてブログにしました。
その記事がwiredのこちら↓。
『「暴力的なゲーム」は社会の重要課題ではない。むしろ問題は「オンラインへの隔離」にある』
シリコンヴァレー企業のせいで社会が直面する危険は、仮想世界における極めて危険で凶悪な行為が現実世界に飛び火することではない。仮想世界に身を置き、そこから離れようとする気もちを削がれた人々が、企業によって搾取される危険なのだ。
引用同上
この記事を読んで思いだしたのが、毎日新聞のコチラの記事。
これらの内容に共通するものについて考えてみました。
木を見て森を見ず
wiredの記事にあった、ゲームが表現する過激な内容そのものではなく、むしろ仮想現実から脱する意欲を削ぐことで起こる他者からの隔離。
言い換えれば孤独の深化。
それこそが危険な事であるという警鐘の記事でした。
またもう一つの毎日新聞の子どものゲーム依存対策として、ゲームを1時間に制限する条例を制定しようという働きについて見えるのは、目の前でゲーム依存になりかけている子どもから目を背けて、条例で規制さえすれば依存からも脱却できるだろうという子ども無視の無責任な思惑。
一見、子どものゲーム依存を防ぎたいという思いがあるように見えますが、実際のゲーム依存になりかけている子どもの話は聞いているのでしょうか?
条例を作ろうと思った人は、なぜゲームに依存しなければならないのか?を誰も理解しようとしていないとしか思えませんでした。
木も見て森も見る方法
「ゲームの過激な表現が危険な行為を働く輩を生み出す」という想像も「ゲームを条例で規制すれば無くせる」というのも、問題の根本に目を向けていないことの現れだということは誰でも分かることだと思います。
ではどうしたらゲームという仮想世界をあくまで遊ぶための場であり、いつでも離脱できると思えるようになるのでしょうか?
ゲームを1時間で止めるという条例ではなく、ゲーム好きなだけやっても依存しない子どもを育てるにはどうしたらよいのでしょうか?
個人的には色々な事柄が関係していますが、最初も最後も自分に自信を持つように育てる、そして保護者も地域の人も条例を作る人も、ゲームを作る人も自信に溢れた人間になることじゃないかと思いました。
過激な表現を目の当たりにしても、自分はゲームだと割り切れると思えたり、ゲームを何時間もしない、または、何時間もしても依存しないそういう人間になる為には、いつも自分の力で他者と繋がっていこうと思えることが大切じゃないでしょうか?
裏を返せばそうなっていない現状は人を信頼していないことの現れと共に、自分を信頼していないことを物語っているように思います。
自分自身はどうか?
自分自身も同じように自分を信頼しきれない面があると自覚しつつ、「それでも」といつでもやり直していけると確信するように心がけている現状です。
みんながそうなれば良いというのも甘い幻想ですが、まずは自分が。自分の家族に対して、友人に対してできればと思っています。
そして、このブログを読んだ人が「むむむ」と何か引っかかるものがあればいいなと思いました。
それでは。