【ぼやき】機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイを読んでぼやきたい

【ぼやき】機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイを読んでぼやきたい

こんにちは!

かなり久しぶりのブログになりました。

その間、子どもの生活発表会で歌や踊り、寸劇を見て感動したり、先輩の奥様のコンテンポラリーダンスを見たり、3月で運行が終わるスーパービュー踊り子に乗って熱海に行ったりと色々とありました。

なかなか集中してブログが書ける環境が無くて本日まで放置している所存でございます。

ただ、書きたいという欲求が溜まると、今回のような駄文を並べるようなブログになるのですが、これまた”人情”という言葉を使わせて頂くことにしたいと思います。

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アラフォーにもなるとぼやきたい

さて、つい最近ぼやきで有名な野村監督がご逝去されました。

野球は詳しくないというか殆ど興味がありませんが、ものまねタレントの松村さんが野村監督のぼやきものまねをしていたのは好きでした。

と、ぼやきに関しての話はこの辺にして、ぼやきたくなる瞬間というのがあるんだという事が伝えたい今回のブログ。

何をぼやきたいかと言えば、今年公開される機動戦士ガンダムの閃光のハサウェイを読んでのぼやき。

いつもなら読書感想という体裁を取りたいところですが、感想なんて書けたもんじゃないです。

だって、最後が悲劇すぎる

こんな最後があるんですか?ガンダムで?

奇跡や希望ではなく、人間の醜さに散った登場人物を見てこれが権力なのか…と思わされます。

少し前に読んだ福井晴敏さんの『O.P.ローズダスト』の小説でも権力者の無責任に、得も言われぬ葛藤をさせられたものですが、今回の閃光のハサウェイでは富野由悠季さんの描く人間像に打ちのめされた気がします。

作品を作るという点で見れば、閃光のハサウェイを読んで身震いする思いもするのですが、そうではなくただぼやきたい。

評価するなんて野暮ったいことはしたくないし、世界観に浸りたいとかっていうのも勿体ない。

ぼやくことしか出来ないくらいに打ちのめされたことを、噛みしめないといけないんじゃないかって思うんですよね、今回は。

 

鬼滅の刃の竈門炭治郎の誠実さに惹かれる理由

急に話は変わるんですが、鬼滅の刃が大人気ですよね。

かくいう自分も大好き。

マンガが読めてないので早い所マンガ喫茶にこもりたい。

で、なんで鬼滅の刃が人気なのかな?って考えた時に、思ったのがその一端は竈門炭治郎の誠実さじゃないかって思ったんです。

誠実さを担保するものって、行動に対しての責任だと思います。

結果が伴わないとしても、その結果を受け止める、そしてその結果に対しての身の処し方を自他共に納得できるもので示すこと。

それが誠実さだと自分は考えます。

ただ、昔からなんでしょうけど権力者であれる人は不誠実さを使いこなす人なんじゃないかと。

更に言えば自分にとって都合の良い結果に対しては誠実に、不都合なものには不誠実に対応することになんの罪悪感も無い、もしくは罪悪感を転嫁する事に長けた人なんだと思うわけです。

で、鬼滅の刃が人気なのは不誠実極まりない人を見る機会が多い世の中で、炭治郎の誠実さに勇気を貰えるからじゃないかと。

 

閃光のハサウェイを読んでぼやきたくなったのは、誠実であろうとしてなれなかった青年が散ることになり、せめてもの情けで散った青年をかばった敵方の友人の想いを、欲にかられた不誠実が見事に砕く姿が描かれていて、この悲劇に打ちのめされたからなんです。

ゲスの極みと言うことが容易く感じられるほどの連邦政府の所業。

ハサウェイがやった事だって逆の面から見れば非道な行い(テロ)であることも忘れてはいけませんが、それを招いたのが何かと文句を言いたくなる感じ。

ただ、何が原因かを話し始めるときりがないし、そもそも過去に戻れない以上は原因を探ることは、ただ自分を消耗させるだけ。

じゃあ何を考えるのかと言えば、これからどうするか?で考える必要があるわけです。

 

そう考えると、残された登場人物たちの今後を夢想する時に、これからという視点で見ると悲しみを抱えたまま、ただ進むのみという事しかないわけです。

その視点をもったまま最初から読み直してみると、仲間とのやりとりの中に人間の慈しみを見ることができる気がするんです。

ぼやいたり、愚痴を言ったり、泣いたり、何かに溺れたり。

どれをしても良いけど、それは次に進むためであれば人を癒すんじゃないかなぁと。

 

と、ここまで来ると閃光のハサウェイ、素晴らしい作品だなと思いました。

人間をここまで描き出すというのは、なかなか出来ないんじゃないかと。

世の中にはきっと、この感じを理解できない人もいるんだと思います。

それはそれで、自分は時々ぼやいて凹むくらいでちょうど良さそうです。

もしかしたら「もうダメ」と思うことがあるかもしれないですけど、人生の中にはそれでも先へ進むための癒しがある事を閃光のハサウェイで知ったので何とかなるんじゃないかって思えそうです。

ありがたや、ありがたや。

 

追記

※追記① 2020/04/11(土)

このブログですが、家のインターネット環境が新型コロナの影響でダウンしており、なかなか更新できませんでした。

他にも自分自身の体調不良なんかもありまして、今日に至っています。

ちなみに、インターネット環境については別の記事で、その悲劇をつづりたいと思います。ちなみに今も継続中です。

 

納得できない?ガンダムUCの存在

さて、今回追記したいと思ったことなんですけど、この閃光のハサウェイを読みつつ福井晴敏さんのガンダムUCの小説版も読んでいました。

流石は福井晴敏さんというくらいの緻密な描写力に、まるでアニメを見ているかのように小説版も楽しんでいますが、一部熱狂的なファンの人からは福井晴敏さんの描くガンダムについて否定的な意見があることを知りました。

この閃光のハサウェイを貸してくれた(というかくれた)、年上の友人もガンダムUCが出た時は「また福井かよ!」って思ったらしいです。

富野由悠季さんの描くガンダムに慣れ親しんだ人からすれば、良く言えば重厚な描写の福井晴敏さんのガンダムが、逆に重たすぎると言えなくもないという点では分かります。

また、宇宙世紀ガンダムシリーズにおいて重要なニュータイプの存在(とアムロとシャアの行方)ですが、逆襲のシャアまでは読者が考える余地があったものをガンダムUCでは、その余地を埋めることになってしまった事に対して大きな不満を感じていることが分かりました。

確かにネタバレになるので注意が必要なので、気を付けて読んで頂きたいのですが、ニュータイプというものにしても、アムロとシャアについてもガンダムUCを見ることで「あぁ~なるほど~」と思えてしまう内容ではありました。

個人的にはそれでも良かったのですが、あれこれと想像の中にあることを美徳とする人からしたら、公式のガンダムに「これが答えだ!」的な内容を突き付けられると、受け入れざるを得ない一方で自分の楽しみを奪われたと考えることになっても不思議じゃありません。

 

奇跡とアムロとシャアをどう見る?

ガンダムUC以降を描いた閃光のハサウェイでは、同じ宇宙世紀シリーズではあるものの、どこか逆襲のシャアからの延長としてとらえる事が難しいとも思えます。

その事は、自分も同意せざるを得ないのですが、ガンダムシリーズの魅力の一つに同じ世界で同じ(または近い)時間軸で、別の場所で展開している物語の存在についてを考えた時に、少し納得できたというか、囚われから抜け出せるように思いました。

というのは、ガンダムUCでのユニコーンガンダムの奇跡やアムロやシャアの行方を思わせる描写、フル・フロンタルがシャアの再来と言われた理由なんかが最後に描かれていますが、これらも人知を超えた奇跡と思える”力”を感じさせます。

一方で、逆襲のシャアの時のアクシズショックでのアムロの駆るνガンダムが起こした奇跡も、奇跡レベルなるものがあれば同等のものだと思います。下手したらアクシズショックの方が奇跡的な出来事じゃないかと思います。

と、宇宙世紀シリーズの中で奇跡が起きていた一方では、平凡な日常を過ごす人、戦争による影響を受けて悲惨な日常を生きなくて行けない人、来たる新たな戦争を待ち望む人などなど色々な人が宇宙にも地球にもいるはずです。

我々が住んでいる地球においても、現代はインターネットの普及により世界中の奇跡的な体験が捉えられて共有されるようになっていますが、果たして本当に全て共有されているのでしょうか?

奇跡というものが万に一つも可能性として存在しないことが起こるからこその奇跡だとすれば、奇跡を目の当たりにするのは一部の人だけなんじゃないかと。

そうなれば、見るべきはフォーカスされたガンダムUCでの戦線の一部始終では無く、そこも含めた世界のすべてに目を向ける必要があります。

となれば、ガンダムUCが起こした奇跡については、アクシズショックでも同等の奇跡を起こしているのですから、人類が生み出す未知の力は(ガンダムの世界では)存在していると言えます。

一方で、アムロとシャアの行方を示すような描写については、個人的には”福井さんが考える、若しくは思い描いただけ”の内容であり、ガンダムUCが起こした奇跡とは別だと思いました。

つまり、福井さんはフル・フロンタルをシャアに似せた人物として登場させた時から、既にアムロとシャアの行方をご自身の中で決めて、それを描こうと思っていたに違いありません。

しかし、これはあくまで福井さんの頭の中で描かれたガンダムだということです。

作者だから、描かれた内容が公式のものであり、ガンダムの世界を決定付けるというものでは無いと思います。

なぜそう思うのかと言えば、アムロとシャアの行方が想像できてしまう描写ですが、必要なのか?と言われたら個人的には必要では無いと思います。

というか、強引さを感じるほど違和感を感じたからです。

ここでアムロとシャアの行方を決定付ける必要はあるのか?

福井さんの中では、あったのだと思います。

福井さんも「(宇宙世紀ガンダムシリーズに)一度句読点を打って、そこから改めてF91から先を考えたい」と語っているようです。

また仮にアクシズショックを起こしたアムロとシャアが、今度は何らかの奇跡でやっぱり生きていたとなる方が余程ガンダムの世界から離れたストーリーだと思います。

多くの人が生きていたかと問われれば「いや助からないでしょ」と答える人が大半だと思います。

でも、そこを描くか描かないかは作者次第ですが、個人的には野暮だと思うふしもあります。

 

宇宙世紀シリーズの成立に必要だったフル・フロンタルとアナハイムエレクトロニクス社

一方で、シャアの反乱の後で袖付きがあそこまで急拡大していくためにも、また、ラプラスの箱がU.C.100へ向けてその秘匿してきたものを表に出すために、ビスト財団がラプラスの箱を袖付きに渡そうと思わせるためにも、連邦政府を震え上がらせる存在というものは不可欠です。

しかし、そこへシャアを超える人物が登場するとなれば、それこそじゃあ逆襲のシャアの時に何してたの?となるはずです。

地球に住めなくなって宇宙に住み始めることになった歴史とジオン・ダイクンの思想から勃興していったジオン公国からガンダムシリーズが始まったとするならば、その中心は0079であり、その時に渦中いられなかった人物が関わってくることの方が不自然だと思うでしょう。

シャアの再来と言われるフル・フロンタルはそうした不自然な存在、人物ではありますが、最後のアムロとシャアの行方を思わせる描写があるからこそ、一連の流れが成立するとも考えられます。

じゃあ、「ラプラスの箱自体を登場させなければよかったじゃないか?」と言う考えもあります。

つまり、ラプラスの箱を巡るストーリーを描くことで不自然なフル・フロンタルの存在が必要になり、ひいてはアムロとシャアの行方を示すことが必要になったのであれば、ラプラスの箱の話さえなければアムロとシャアの行方を示す描写も必要無かったと言えるというわけです。

しかし、それではジオン・ダイクンが提唱したジオニズム思想(エレズムとコントリズム(サイド国家主義思想)の二つの思想を統合し、ニュータイプという宇宙環境に適応した新人類の概念←wikiより)の存在が希薄になるばかりでなく、ニュータイプというガンダムを通じて描かれた存在が揺らぎ、アムロやカミーユ、ジュドーなど歴代ガンダム搭乗者の活躍も破綻してしまいます。

簡単に言えばニュータイプの力は強化人間の存在も含めてガンダムシリーズのストーリーには不可欠な存在です。

と、同時にジオニズム思想の勃興から0079に至った所で一年戦争が始まり、そこから始まるストーリーがガンダムシリーズであるならば、ラプラスの箱で明かされた内容が重要になってきます。

しかも、0079からスタートして0096に至り、宇宙世紀が0100を目前にしたという時代を考えた時に、宇宙世紀の始まり~ジオニズム思想をつらぬくニュータイプの存在の根幹になる、ラプラスの箱が登場するのは必然だと言えます。

ちなみに、ラプラスの箱の内容についてはwikiを参照してみてください。

もし、ここでラプラスの箱が登場しないのだとしたら、人類はアクシズショックやユニコーンガンダムの起こした奇跡を知る事もなく、新たな人類の可能性を自ら閉じてしまう事になりかねません。

それこそ、ガンダム自体のアイデンティティを奪うことになりかねません。

 

また、もう一方で作品に登場するガンダムやモビルスーツですが、これらの兵器が存在できるのも連邦政府やジオン~袖付きと言った組織以外で、モビルスーツを提供できる第三の存在とも言うべきアナハイムエレクトロニクス社がなければ成り立ちません。

仮に連邦政府にだけモビルスーツやガンダムを作る技術があったとすれば、ジオンは存在していませんし、その逆でも同じです。

つまり、兵器供給を行う中立の存在が無ければ戦争の構図も完成しないわけです。

ガンダムの始まりでもある一年戦争を決定付ける要素として、連邦政府やジオンと同じくらい影響力のある第三の権力とも言えるアナハイムエレクトロニクス存在は必要不可欠な存在であります。

そして、そのアナハイムエレクトロニク社が権力を持てる理由そのものが、宇宙世紀シリーズをつらぬくニュータイプの存在であり、そのニュータイプの存在を示すと共に連邦政府の過去の醜聞を示すラプラスの箱が関係していることは述べました。

様々な要素が絡み合い、すべてが必然とも言えるくらいに存在しているのがガンダムシリーズだと思います。

 

閃光のハサウェイではニュータイプの存在が希薄だがしかし・・・

その上での閃光のハサウェイ。

この作品をどう見るのか?というのが、『奇跡とアムロとシャア』の部分でも書いたように、奇跡というのは戦場の最前線に居れば強烈な臨場感を感じると思います。

しかし、その場から遠い人ほど奇跡の臨場感は薄れ、まるでオカルトのように感じてしまうと思います。

ニュータイプの存在やアムロやシャアを近くで見てきたハサウェイですが、ニュータイプについては深く言及していません。

少なくとも小説でのハサウェイは、アムロやシャアの残した思想に共鳴してはいるものの、目の前で失くしたクェス・パラヤであったり、『閃光のハサウェイ』で登場するギギ・アンダルシアやと言った登場人物であったり、連邦政府に対してのテロ活動に腐心している様が描かれています。

簡単に言えば、すごく人間味が描かれているとも言えます。

そこには奇跡とは程遠く、ただ思想を元に戦う戦場での一人の男(男子?)が描かれているにすぎません。

 

そう聞くと、何だか世界観のスケールが小さく感じてしまうようですが、奇跡が起きる場所が凄いのではなく、奇跡も世界の中ではただの一部の出来事に過ぎず、その意味ではハサウェイがいる戦場も同じく世界の中の一部であり、そこに差を求める事は出来ません。

もちろん、稀有な存在に対してありふれた出来事との違いや差を見出いしたい、価値付けをしたいという欲求は分かります。

しかし、ガンダムの世界においてはそれこそ野暮というものでしょう。

ニュータイプが起こす奇跡も、民間人が戦いの中で見せる気概も同様に人々の心を打つからです。

その意味で、ハサウェイがブライト艦長の息子であることが意味を持ってきます。

 

ニュータイプと深くかかわってきたブライト・ノア。

宇宙世紀ガンダムでの彼の活躍やアムロとの邂逅、Zガンダム、ZZガンダムでのニュータイプとの関わり方を見ていると、ニュータイプでは無いにもかかわらず、常にアムロ、カミーユ、ジュドーのニュータイプとしてだけではなく、その一人ひとりの可能性を常に感じて接しているように思いました。

また、軍人として腐敗する連邦政府と戦場の最前線で戦う兵士や乗組員たちとの間で、その時の最善を目指して奮闘するからこそ、ガンダムシリーズの中でも、愛される存在なのだと思います。

 

そのブライトの息子であるハサウェイですが、父親の道とは大きく異なる道を歩むことになります。

その因果や男としての葛藤、悩み、弱さが『閃光のハサウェイ』では描かれており、奇跡を起こしてきたニュータイプとの対称性が、またそのハサウェイという男の儚さを浮き彫りにしていると感じました。

もちろん、ギギやケネスと言った人物たちとの関係性や、それぞれの持つ背景を併せ持って見ると壮大な人間ドラマが凝縮されています。

ガンダムが存在する世界の中で、ニュータイプであるアムロとシャア~カミーユ~ジュドー~バナージの物語を中心と見た場合、その中心とは別の視点で地球連邦政府と戦うハサウェイたちマフティー。

でも、その中心から外れた世界の方が圧倒的に多いはずなんです。

だからこそ、大勢の中の一人であり、ニュータイプでもないハサウェイ身に降りかかる悲劇に、強烈な臨場感を感じるわけです。

 

ニュータイプの存在は人の可能性を暗に示していると思っていますが、同時に人間の悲劇や儚さというものを通じたメッセージも、ハサウェイ(マフティー・ナビーユ・エリン)を後の世が伝説として語り継がれたというストーリーを通して、人に勇気を与え可能性を広げる事を示していると思います。

どちらが優れているのかではなく、才能の有無ではなく、想いを遂げようとする葛藤が、また別の人の可能性を広げていくことをガンダム作品が教えてくれているような気がしました。

そうやって見た時に本当に大事だと自分が思うのは、その作品を見て何を得るか?じゃないかと思いました。

ダメ出しをする事も悪いとは言いません。

でも、ダメ出しのままで終わる事は良くないと思います。

なぜダメなのか、何がダメのなのか、どうすれば良いのか?を考えて、既存の作品がそのダメな点を改善できないのであれば、ダメ出しをした人がそのダメ出しをした部分を補完するものを作るか、改善した新しい作品を作るなど次の世代に対しての可能性を広げるものを形にしていくことが大切じゃないかと思うわけです。

そういう意味で、福井晴敏さんのガンダム作品にケチをつける人は、ケチをつけて腐る前にガンダムを超える作品を作って下さいとお願いしたいと思います。

以上。