【読書感想】龍神の雨:道尾秀介~選択~

 

こんにちは!

今回も一気に読んでしまった。
道尾秀介さんの龍神の雨。

重すぎる展開ながらもページをめくらずにはいられない作品です。

個人的にラットマンと重なる部分がある一方で、最後のライターさんの解説を読んで今回の作品には選択というテーマもあるんだなぁ~と考えさせられた。
それにしても、読ませる作品でっす。

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迫られる選択を自分の視点、子どもの視点で考える

龍神の雨は、蓮と楓の兄妹と辰也&圭介の兄弟が、血のつながりのない家族の存在と亡くなった母親への思いに揺れながら、一つの事件に巻き込まれていく中で何を選択するのか?を問われ、家族の絆に立ち返っていく作品だと言えるんじゃないかと思いました。

こう書くと何ともありきたりのような作品ですが、そこは道尾作品なので一気に読めちゃいます。

自分も最初は展開される内容が重過ぎて、ページをめくる手が鈍りましたが、手が止まらず半分まで来た頃には最後まで読まずにはいられなくなりました。


また、今回は巻末の文庫版(?)の解説がとても分かりやすいというか、本の中の伏線を分かりやすく解説してくれたことで、読み終わってから色々と引っかかっていた部分が繋がっていく感じでした。

詳しい内容は読んで頂くとして、自分がこの作品を読んで思ったのは、目の前にある辛い出来事に対してどのような選択をしていくのか?について問われている気がしました。

蓮と楓の義父である陸男が妻(蓮と楓の母)が亡くなった後に、家に引きこもり酒におぼれ暴力をふるった時、後々蓮と楓の勘違いだった事が分かるものの、陸男が楓の制服に射精していた(実際はアイツ!)と思ってしまった時などなど。

蓮と楓(と辰也と圭介も)の目の前に見えている現実は、例えそれが自分の誤解であっても、それ以外の事実が見えなければ、決断すべき選択は限られてしまう事を表していました。


これはラットマンからの流れともいえるんじゃないかと思います。

ラットマンでも、主人公の勘違いによって思わぬ展開になっていくのですが、その勘違いを誰が責められるのか?という問いかけがされていました。

つまり、龍神の雨における蓮と楓の選択も勘違いした状態で見ていた状態での選択でした。


しかし、ラットマンが提示したのは、上記のように事実が分からないまま選択に至ることがある、という提示をテーマとしていたのに対して、龍神の雨ではその先で知ることになった真実と相対した時に、当事者はどんな選択するのか?あなたはどんな選択をするのか?というテーマとしていると思います。

ライターの方の解説を読むことで分かったのですが、龍神の雨では蓮と楓の犯した(と思っている)罪が実は違った、蓮が最後に選択した行動が実は本人の思う形とは違う(簡単に言えば罪に囚われずに済むこと)方向へ進むことを予感させています。

全然違った視点で見れば、龍がすべてを(文字通り)水に流してくれているとも取れます。

それは辛い現実を生きてきた蓮と楓兄弟にとっての救いの一面であるとも取れます。


”人生という龍”という表現をされている人もいましたが、人生というものが自分の力ではどうしようも無い流れの中で進んでいるという事を知ることも出来ると共に、どうしようも無い流れの中でいても自分が何を選択するのか?が極めて重要であるという事を気が付かせてくれます。

書いてて思いましたけど、現代におけるニヒリズムに対しての道尾さんの回答だとも思えます。

つまり、「どうせ結果が決まっているなら自分で選択をしても意味がない」というニヒリズムに対してです。


自分が学ぶコーチングでもありますが、
「want to~(~したい)なことだけをする、heve to~(~ねばならない)ことは一切しない」
というものがあります。

要は自分がする選択は、置かれている状況による押し付けとするのではなく、すべて自分がしたいと思う選択であるべきということです。

と、同時にこの言葉が指しているのは、実際の選択のすべては自分が~したいと思ってしている選択の連続で出来ているという事も表しています。


蓮で言えば、妹の楓が陸男にひどいことをされていると知り殺害を選択しますが、本当ならば別の選択もあったはずです。

第三者の介入を支援したり、楓を連れて家を出るなど。

しかし、その時の状況における一番有効だと判断した選択をしていることになります。


ここで自分が言いたいのは、蓮が他にも取れたはずの行動があったのにそれをしなかったという事を非難したいのではありません。

実際にそれについては、ラットマンの中で道尾さんが提示された状況がすべてになった人の選択について、誰が文句を言えるのか?と言っています。
自分もそう思います。


ここで言いたいことは、「そうするしか無かった」という後悔ではなく、どんな選択も「それがその時点での最良の選択だった」と思うことの大切さです。

後悔をするな、ということでもなく(後悔ではなく反省せよという声もありますが、人生においては後悔も必要だと私は思います)、例え後悔したとしても、どこかでその選択をした自分を肯定してあげることが大切なのではないかと思います。


圭介が母親に対して言った一言が、母を死に追いやってしまったという後悔もそうですが、この後悔で圭介は他人に対しての優しさを学ぶのではないでしょうか?

しかし、この事に後悔をし続けていれば、他人に対して何も言えなくなるかもしれませんし、「自分が何を言っても人を死においやってしまう」と思い続けていたら、幸せに出来る人も幸せに出来ません。


今回の龍神の雨を読んで思ったのは、自分がした選択というものがどんな形を辿っていくのか?後悔やニヒリズムというものが自分の選択とその結果をどのように形作っていくのか?というものが表されていると同時に、それに対してどうすべきなのか?という事ではなく、ただ単純に自分の選択を信じること、信じても良いんじゃない?という、遠すぎずそれでいて短絡的ではない道尾さんの寄り添ってくれるようなやさしさを感じがしました。

小説としての展開は道尾作品が好きな人も、そうでない人も魅了すると思いますが、それ以上に小説というスタンスが持つ魅力というものを再発見できたような気がしました。